【UGO㊙︎STORY第2弾|電車】かつて存在した駅から、100年前の羽後町を思う。

羽後町に秘められた歴史や文化を一から学び、特集記事で紐解く「羽後の歴史」もとい「UGO㊙︎STORY(ウゴヒストリー)」。今回のテーマは「電車」です。「羽後町に電車って通っていたの?」と思う方も少なくないかもしれません。そう、現在は電車の停車駅がない羽後町。「実は電車が通っていた」と聞き、今回調査してきました!

電車は「ありふれた日常」だった50年前の羽後町

羽後町の電車の謎を探るためにまず向かったのが、元西(もとにし)地区にある「旧雄勝線電車車両保存庫」。なんだか早口言葉のような長い名前の保存庫で、声に出して読み上げたくなります。

こちらには当時、羽後町〜湯沢を走行していた木造電動客車『デハ3号』が保存されています。

車両保存庫を管理しているのは、羽後町に住む原田(はらた)さん。一人でも多くの人に当時の様子を伝えるべく、数十年前に鍵を預かり管理人となりました。特別豪雪地帯の羽後町。毎年冬になると保存庫に来て冬囲いや雪おろしを行い、雪どけがすすむ3月下旬から11月上旬にかけて来訪者に保存庫を開放しています。

原田さんは保存庫の外を指しながら、当時の様子を語ってくれました。「駅舎のそばには農協があって、農機具や日用品の販売をしていたんですよ。他にも食堂やお菓子屋さんがあって、夏にはかき氷もやっていましたね」。今や車で通り過ぎてしまうことも多いこの場所も、当時は多くの人が行き交う停車場だったようです。

保存庫の近くに復元された信号機が、その先の湯沢に続く当時の線路を思い起こさせます

当時、湯沢市の高校まで雄勝線で通っていた原田さん。現在も愛され続ける湯沢市のラーメン店「長寿軒」で学校帰りにラーメンをかきこみ、急いで電車に乗りこむこともあったといいます。学校の先生も同じ電車で通学するため「テスト期間には先頭車輌に乗って、勉強したふりをしていましたね(笑)」と、学生らしいエピソードも。

車もバスもない時代。貴重な移動手段だった雄勝線

1928(昭和3)年の開業から1973(昭和48)年の廃線まで、羽後町の電車として活躍した雄勝線。町民の足として、産品を送り出す運送手段として、また町の誇りとして、およそ50年間にわたって羽後町を駆け抜けました。

秋田の西馬音内(にしもね)
ほんとによいどご 皆さん来てたんせ
湯沢の駅から 道のり二里半
電車で三十分
(小坂太郎『私の西馬音内(ふるさと)地図』, 雪国文学社, 1990, p.43)

西馬音内盆踊りの地口(じぐち)募集にあたって詠まれたという歌詞の一節。昨今の西馬音内盆踊りの地口で「道のり10km 車で15分」とうたわれているのとは対照的に、当時は電車が主要な交通手段だったことがうかがえます。

保存庫の外壁に掲示されている、雄勝線の沿革

雄勝線の開通当初はバスや自家用車もなく、ようやくタクシーの運行が始まった頃。交通の要所である一方、強力な輸送機関がなかった周辺地域にとって、電車の開通は朗報だったそう。1928年の開通にあたっては開通式のほか野外祝賀パーティーや仮装行列などが行われ、町の人々が総出で開通を祝ったといいます。

「停車場が新設されてから、場末の町はいきなり町の玄関となった」(小坂太郎『私の西馬音内(ふるさと)地図』, 雪国文学社, 1990, p.14)

「薄明の朝まだき、一番電車の汽笛の音が生活のプロローグを告げ、西馬音内町の夜明けは橋場からはじまったのである」(小坂太郎『私の西馬音内(ふるさと)地図』, 雪国文学社, 1990, p.14)

電車の登場により、着実に変わっていった日常の風景。電車が停車する朝夕の時間帯には、駅周辺の人通りも盛んだったといいます。豪雪地帯の羽後町で道路の除雪も十分でなかった当時。雄勝線の車輌にはストーブも設置され、冬季期間に町内外を繋ぐ貴重な移動手段でもあったようです。

車両保存庫には写真や説明の展示があり、電車の通っていた当時の様子を伝えています

「町村間の往来はしげく活気を呈し、通学する上級学校希望者を増やし、木材、米穀などの農林産物や一般物資・生活用品等の輸送が、地域産業の振興や消費生活の潤沢と結びついたことはたしかである。」(小坂太郎『私の西馬音内(ふるさと)地図』, 雪国文学社, 1990, p.42)

開通とともに町に活気をもたらし、町の人々の生活を大きく変えた雄勝線。しかし乗用車の普及にともない利用者は減少。原田さんが大学に進学する頃には廃線が決定します。廃線直後の冬に豪雪が羽後町を襲い、学生たちが湯沢まで歩いて登校したというエピソードは、電車が当時、交通手段として重要な役割を占めていたことを物語っていました。

レトロな車両が伝える、100年前の羽後町の姿

「旧雄勝線電車車両保存庫」に保管されている『デハ3号』。定員28人(座席14)の小ぶりな車体には、ユニークなしつらえが当時のまま残されています。雄勝線の廃線後、地元の土建業者や電車運転手だった羽後交通OBによって再整備され、町が格納庫を建設して現在の形に至ったそう。先人の思いが、昔の記憶を今に伝えています。

この「旧雄勝線電車車両保存庫」が建つのは、羽後町内の線路の一番端に位置する「梺(ふもと)駅」があった場所。電車が走っていた時代、田代方面の住民たちは梺駅で下車してから、現在の七曲峠に隣接する近道を登って家路についたといいます。車両に乗りこみ、少し硬い座席に座ると、1928年にタイムスリップしたような感覚に。

車内の座席から停車場の看板が見えます

現在の電車ではなかなか見ることのできないポップな色合いの車内や、レトロな装飾の金具も見応え抜群です。

現在では、多くの車輌で座席を備えている運転席。対して、こちらの『デハ3』は運転手が立って操縦をしていたそうで、車両先頭の壁で区切られた狭小のスペースが運転席になっています。チェーンがかかっていて運転席には入れませんが、当時のまま残されたハンドルは、今にも動き出しそうなくらいのリアルさを残していました。

鉄道雑誌をみて来る人もいれば、「うちのおふくろ・おやじが乗った、という話を聞いて、電車を見にきました」という年配のお客さんもいるそう。車内には雄勝線の資料も置かれており、思い出として持ち帰ることもできます。写真を撮ったり、座席に座って当時を思い浮かべたり。居心地の良い空間に、気がつくと小一時間が経っていました。

詳細が気になる方は、ぜひ羽後町立図書館へ

羽後町の電車を調べるにあたりもう一つ訪れたのが、羽後町立図書館です。今回閲覧したのは、『私の西馬音内(ふるさと)地図』(小坂太郎, 雪国文学社, 1990)と羽後交通雄勝線 ー追憶の西馬音内電車ー』(若林宣, ネコ・パブリッシング, 2003)の2冊。ほかにも館内には羽後町や秋田県に関わるさまざまな郷土資料が所蔵されており、町民以外の方も閲覧が可能です。

「停車場は、雄勝西部の農村地帯の交通脈にとっては国鉄本線につながる心臓要部、青雲の夢を抱いて上京する若者には理想への階段、売られ行く娘たちにとっては地獄への門、新婚の花嫁花婿にとってはまぶしい人生街道の入り口、旅行から帰る家族を待つ子どもにとっては限りなく時間の長い場所、そして転任の若い教師を見送る女生徒たちが涙にくれる場所であった。」(小坂太郎『私の西馬音内(ふるさと)地図』, 雪国文学社, 1990, p.61)

時代とともに、十人十色の人生を乗せ運んだ雄勝線。その足取りを辿ることで、羽後町の半世紀が鮮やかによみがえってきます。羽後町の人々が残した「旧雄勝線電車車両保存庫」を頼りに、当時の生活に思いを馳せてみるのはいかがでしょうか?訪問の際は、事前に以下の連絡先までお問い合わせください。

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UGONEWS編集部(地域おこし協力隊|岸峰祐)