こんにちは、新人協力隊の小森です。コロナ対策で自粛の日々が続きますね。僕は自炊とスクワットで時の長さに耐え忍んでいます。
羽後町では、地域おこし協力隊が現在4名活動しています。
じゃじゃん!!!
蔡 育霖(さい ゆーりん)‐国際交流事業(国際教養大協働・タイ短期留学)担当
阿部 朝美(あべ ともみ)‐キャリア教育事業(実践型インターンシップ)担当
佐藤 優(さとう ゆう)‐国際交流事業(国際教養大協働・タイ短期留学)担当
小森 一太(こもり いちた)‐広報事業(ugonews記事・動画)担当
…とはいえ、この名前をみても『誰ひとりピンとこないんだけど』なんて声が聞こえそうです。「地域おこし協力隊って何?」と思われる方もいますよね。「なんか、町の外から手伝いに来てくれたんでしょ?」と。
僕たちそれぞれが「移住した理由」や「将来実現したい夢」を持っています。「地域おこし」といってもなんでも屋ではなく、それぞれの特技や担当がちゃんとあるのです…
一体どんな人たちが移住したのか?何か裏の目的があるんじゃない?夜逃げでもしてきの?そんな疑念を晴らすためにも、新連載【協力隊物語】では協力隊員の紹介から始めていきます!
協力隊員物語第1弾は、台湾レディーのはるちゃん(蔡 育霖・さい ゆーりん)。もともと台湾の首都・台北でスターバックスのエリート店員として働いてたものの、ひょんなことから、日本語を学びに羽後町へ来たそうな。
…普通、留学で羽後町にくるか?なにか騙されたんじゃないの?
どうして羽後町に?
「ははは、わたしの台湾の友だちにもそう言われました。『羽後町?秋田?聞いたこと無いよ』って」
「じゃあやっぱり…」
「いえいえ、騙されたんじゃなくて。『羽後町留学』っていう、田舎の昔ながらのくらしを体験しながら、真の日本の生活を学ぶプログラムに参加したんです。モニターツアーと撮影のために参加費が無料で。だから、みんな『怪しい』って言ってました」
「『知らない場所に無料で留学』は、怪しさしかないね」
「羽後町留学できてみて、最初は『あ、ほぼなんもないな』って思いました」
「ははは」
「留学中、ホームステイの家族がとても親切にしてくれた。それからこの町がすごく好きになってきて。お父さんがいつも秋田弁で喋ってて、お母さんと娘さんが通訳になってくれた。わたしの顔を覗き込んで、伝わってるか確かめるように」
詳細はこちら:
*羽後町留学は、現在トラベルデザイン株式会社により企画・運営されています。
「初めてきいた秋田弁って、覚えてる?」
「うーん、ここでは『どうも』の使い方が、普通と違うよね。ホームステイ中に会ったおばちゃんが会話の最初と最後で『どうも』っていうので、『なんでどうもって言うんだろう?』って。台湾では『ありがとう』の意味で習ってたから」
「秋田の人めっちゃ言うもんね。『あ、どもども、どうもー』って」
「そうそう」
「はるちゃんとの挨拶は、いつも『どうも』ではじまって『ほなー』で終わるよね」
「なぜか大阪弁が混じってる。羽後町留学のあとも、2回羽後町に来たの。一度は桜が見たくて4月にきたら、めっちゃ寒かった」
「春なのに」
「おかしいな、って。でもやっぱりこの町がすごく好きで、それからめっちゃ悩んだ…台湾で仕事をやめて、羽後町に来るか、それとも東京にいくか」
「いずれにせよ、日本には来ようと思ってたんだ」
「小さい頃からの叶えたい夢だった。日本に遊びに行きたい、そして仕事したい。それを日本の友人に相談したら、地域おこし協力隊をおすすめされました。でも台湾の友人はまた、『なんでそんなとこいくの?』って」
「また『秋田ってどこ?羽後町ってどこ?』って」
「でも、本当にきてよかったですね。じゃなきゃ一生秋田・羽後町にくることはなかった」
「日本人でも、知らない人たちがほとんどだもんね」
台湾では何してたの?
「子どもの頃から、山が好きだったの?」
「中高生のときに、山に籠もって生活する…っていうのに憧れて」
「ああ、アーティストとか小説家とか」
「でも今思えば、生意気だったなって。農業だって、そんな簡単にできないんだから」
「はるちゃんは、もともと台北出身?」
「いいえ、台中の近くの彰化市(しょうか・チャンホワ)という町です。あまり田舎でも都会でもない、秋田でいえば大曲みたいな」
「大曲の人におこられる」
「もともと、都会が好きじゃなかった。高校卒業する時も、大学で台北に行きたくなかったから、南部の嘉義県(かぎ)の大学にしたんです」
「台湾では、『とりあえず大学いこう』っていう風潮はあるの?」
「『とりあえず台北の大学にいく、そのまま台北で仕事する』っていうのが多いですね」
「へぇー」
「北部・中部・南部にそれぞれ名門大はあるけど、高校の時から台北がだいっきらいで。とりあえず田舎の大学にいきたかった。台湾の大学受験は志願制なんだけど、志望大学の10番までは台北の大学を書いてなかった」
「子どものときに台北いって、嫌になった?」
「いや、そんなわけでもないけど。高校でも進学校いくために台中に通ってたけど、あんまり好きじゃなかったな」
「大学卒業したあと、最初お医者さんになりたかったの」
「え、大学卒業してから?」
「実は台湾では、西洋医学と別に、漢方のお医者さんがあって。漢方の医者になるのには、大学卒業してから入学試験を受けられるんだけど…それがめちゃくちゃ難しい。それで落ちちゃった」
「そうやったんや」
「その時のもう一つの夢が、日本に行くこと。ちょっとヤケクソになって、とりあえず日本に遊びに行った。そして地元で1年間働いてるうちにちょっと焦ってきて、『やっぱり台北に行ったほうがいいのかな』って。それで台北のスターバックスで働き始めた」
「じゃあ実は、コーヒーについても詳しいんだ」
「もう忘れてきてるけど。2年くらい働いてて、ラテアートもやってた。星のついてるスタバって知ってる?」
「なんか、すごいスタバってこと?」
「…そこでは黒いエプロンつけてる店員は、ラテアート担当で」
「スタバエリートだったんだ」
「なんでやねん。そこで、秋田で観光関係の友人に出会って。それで羽後町にきた」
「そこで羽後町留学に出会ったんだ」
「台湾では、田舎へ移住したいっていう人とかはいるの?」
「前よりも増えている気はするかな…農業したいとか、自分のお店を田舎で開きたいとか、新聞にのったりもする」
「そうなんだ」
「実は秋田の大仙市の地域おこし協力隊で、台湾出身の人がいるってことを知って。すごいびっくりした!半分ALTの先生で、観光協会の手伝いをしているらしい」
「同じ秋田で台湾出身同士!すごい偶然」
「その人も東京留学終わってから就職迷ってたときに、フェイスブックの投稿みて応募してみたらしいよ」
「すごい勇気だ。普通だったら『秋田ってどこやねん』ってなるよ。貴重な人口+1!」
今はどんな活動をしてるの?
「今の仕事は、主に漫画をかくこと。日本・秋田の生活でびっくりしたことを伝えて、もっと身近な日本の暮らしを台湾に伝えたい。台湾ではまだまだ、表面的な日本の一部だけが伝えられてると思っていて。もう一つは、台湾中国語講座をやっています。こちらでは、台湾の文化を羽後町の人に紹介してる。お互いの文化を学び合うことで、繋がりや行き来を増やしたいなって思ってる。最近ではわたしも秋田弁を学びはじめて、漫画に描いています」
「噂では、はるちゃんの受講者が実際に台湾にいったとか」
「そうなの!去年の11月頃、一度参加してくれた方が、2回目きたときに『航空券予約しました!』って」
「すごい行動力」
「でも旅行ができない今となっては、行けるうちにいけてよかったね」
「これからはどんなことがしたい?」
「一番は、台湾と羽後町の文化を紹介しつつ、受講者の方々を台湾につれていきたい。そこで友だちを作ってもらいたい」
「そうやって羽後町と台湾の架け橋になるんだね。既にはるちゃんの友だち含め、沢山の台湾の人が羽後町にきてるしね」
「架け橋というか、きっかけになれたらうれしいな。台湾とはどんな場所か、羽後町ってどんな場所か、少しでも興味持ってもらえたらなって」
台湾でお医者さんになる夢を諦めて、台北のスタバの店員から秋田のとある町で働く…想像もつかない人生ですね。地域おこし協力隊になる人は、みんなちょっぴり変わった部分があるのかもしれません。
協力隊員物語の第2弾は、今年の5月に協力隊を卒業して羽後町の移住定住支援員に着任した莊 優輔(そう ゆうすけ)さんに迫ります。
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